宮里先生とのドイツ調査(1)

田中 誠 (弁護士)

 2023年2月5日、日独労働法協会前理事、日本労働弁護団(以下「労働弁護団」)元会長の宮里邦雄弁護士が83歳で逝去された。
   宮里先生は、80歳を過ぎてもその頭脳明晰ぶりには何の衰えもなく、法廷でも労働委員会でも反対尋問を自ら行うなど、多くのベテラン弁護士にとって羨望の的であり、中堅・若手から見ても、まさに現役一線級の弁護士であった。
   宮里先生は、2021年6月には『労働弁護士「宮里邦雄」55年の軌跡』(論創社)を上梓され、そこでも若い労働弁護士を鼓舞しつつ、「私は、若い人のあとを後ろから、トボトボと遅れないように必死で追いかけながら、ついていこうと思っております。ただし「熱き志」だけは抱いて」と述べておられた。
   誰もが、当分は宮里先生とご一緒できると思っており、難しい病気にかかられ、こんなに早くに、皆の前からいなくなってしまわれるとは思っていなかった。とても悲しく残念であり、その喪失感は大きい。

   宮里先生は、1939年大阪府に生まれ、戦後、ご両親の郷里・沖縄県の宮古島で少年時代を送り、沖縄復帰前の「国費留学生」に選ばれて1958年に東京大学に進学された。法学部在学中1962年の司法試験に合格され、2年間の司法修習を経て1965年に弁護士登録後は一貫して労働者・労働組合側にたって労働事件を扱ってこられた。
   2002年から2012年まで労働弁護団の会長を務めるなど、わが国労働弁護士の代表的存在の一人であった。
   宮里先生は、数多くの労働委員会事件・訴訟事件で実績のある「実戦派」弁護士であったが(具体的事件にはここでは触れない)、日独労働法協会発足(1997年)時の発起人であり、2021年秋に退かれるまで理事でおられ、日本労働法学会の理事も務められるなど、労働法研究という部分でも、労働弁護士のお手本であった。

   筆者は、宮里先生が弁護士になった1965年の生まれで、弁護士登録も1992年と27年も隔たりがある上に、所属事務所の地域も異なるから、通常はなかなか接点がないのだが、労働弁護団では、1993年から、若手弁護士を事務局として「ホットライン活動」という、広範な労働者を対象とした労働相談活動を始めており、それを幹部として強く支持してくださった一人が当時労弁副会長の宮里先生で、筆者も、その謦咳に接することになった。
   宮里先生は大先輩でありながら、若手の問題意識を柔軟に取り入れてくださる方で、若手の提起に難点を並べあげて萎縮させるというようなことは全くないばかりか、いつも後押しをしてくださった。

  1990年代当時、国労バッジ着用に対する会社の不利益処分を争う不当労働行為事件が闘われていた。不当労働行為制度の先輩であるアメリカには1941年の連邦最高裁判例があって組合バッジ着用は団結権の一内容とされており、特段の事情があるときだけ規制してよいことになっていることが知られていたが、日本の裁判所では無視されていた。
  アメリカ映画を見ていて、組合員が職場で公然と大きなバッジをつけていることに気づいた筆者が、現在のアメリカにおいて組合バッジが実際どうなっているか調べてみようと発案し、神奈川の弁護団の細々とした蓄えでアメリカ調査をしようとしていたら、国労弁護団の筆頭である宮里先生が強く賛同してくださり、宮里先生の鶴の一声で、組合で予算化され、1994年3月の米国調査が実現したということがあった。この調査は、国労神奈川バッジ事件の勝利(横浜地判平9・8・7労判723号、高裁・最高裁でも勝訴)に一定の貢献をすることとなった。   (つづく)