法定最低賃金の12ユーロへの引き上げ

岩佐卓也(専修大学経済学部教授)

  2022年10月1日ドイツの法定最低賃金が12ユーロへと引き上げられた。2015年の法定最低賃金導入以来引き上げは行われてきたが、今回の引き上げは手続においても、引き上げ幅においても異例のものであった。

  ドイツの法定最低賃金の改定方法は、法定最低賃金と協約自治との緊張関係が強く意識されてきた経緯から、政治が法定最低賃金の改定に際して労使委員に影響を及ぼすことがないように、または法定最低賃金が政治的紛争の対象とならないように、「疑似協約自治的」に設計されている。

 すなわち、他国で通常みられる公益委員や政府委員は設けられず最低賃金委員会の議長は労使の共同提案に基づいて任命されること(共同提案が成立しない場合は抽選)、最低賃金委員会は最低賃金を定めるに際して協約の動向の後を追ってそれを基準とすること、そのために過去2年の労働協約の賃上げ率を加重平均した連邦統計局の「協約指標」を用いること(最低賃金委員会運営規則Geschäftsordnung 3条)、通常の労働協約の改定期間に合わせて2年ごとに改定すること-などである。

  この仕組みのもとで、最低賃金委員会はこれまで2016年6月、2018年6月、2020年6月の三回、それぞれの翌年以降の2年間の法定最低賃金額について審議し、決議を行ってきた。実際には連邦統計局の協約指標から算出された賃金額がそのまま決議の額となったことはない。とくに2020年の決議はコロナ危機を反映して4段階の引き上げという複雑な妥協形態となった。とはいえ大きくみれば、下記のグラフにあるように法定最低賃金は協約賃金の上昇スピードに対応して引き上げられてきた。

  しかしながら、2016年の最初の改定時から法定最低賃金の水準は低すぎるとの批判が労働組合から加えられてきた。
 そして2018年あたりから望ましい水準として「12ユーロ」が言及されるようになる。その根拠は、ひとつはフルタイムで45年間就労した場合の年金支給額が基礎保障の額を下回わらないということ、もうひとつは賃金の中央値の60%を下回らないということである。「中央値の60%」は先日成立したEU最低賃金指令においても法定最低賃金引き上げの目安の一つして挙げられている。

  問題は、既存の法定最低賃金の改定方法では当分12ユーロに到達する見込みがない、ということであった。2033年までかかるとの試算もあった。
 そこで労働組合の意を受けたフベルトゥス・ハイル労働・社会相(SPD)は、2020年の最低賃金委員会決議がなお12ユーロから隔たっていることを受け、制度そのものを改変する意向を表明した。
 当初は改定基準を変更する案も検討されたが、その後、最も直接的に、最低賃金委員会の決議を経ず、法改正によって法定最低賃金を12ユーロに設定する方法が有力になった。これは2021年9月の連邦議会選挙におけるSPDの重要な公約となった。選挙でSPDは第一党になり、12ユーロへの引き上げは新しく成立したショルツ政権の連立合意に書き込まれた。

 連邦議会選挙の際にはCDU/CSUは法改正による12ユーロへの引き上げに反対していた。ところが連邦政府が2022年2月に提出した12ユーロへの引き上げを内容とする最低賃金法改正案は大きな政治的争点とはならなかった。
 改正案に対してBDAは最低賃金法制定時の約束を反故にする「国家賃金」の導入であり、違憲であると強く反発したが(Zeitschrift für Arbeitsrecht 3/2022にはBDAの委託によるFrank Schorkopf意見書の短縮版が掲載されている)、CDU/CSUは態度を軟化させ、採決では保留にまわった。

 こうして法定最低賃金は12ユーロへと引き上げられた。これは、上で紹介したグラフに見られるように、協約賃金の上昇に連動するという従来の枠を大きく逸脱するものであった。なお連邦政府は法改正による引き上げは「一回限り」としており、今後は再び最低賃金委員の決議による引き上げが行われる。

 周知のように、この間多くの国々で法定最低賃金の大幅な引き上げが実施されており、その意味ではドイツは特殊ではない。しかし、ドイツは特殊な「疑似協約自治的」な改定方法を採用していたために大幅引き上げは制度的な困難に逢着した。そこで最終的に、法改正による引き上げといういわばアメリカ型の改定方法をとらざるをえなかったのである。
 このことは非常に興味深い論点を呈示している。すなわち、今日法定最低賃金に対する政治介入が増大している、別の面からみると、法定最低賃金の決定において労使交渉外在的な論理が前面に現れている、といえるのではないだろうか。

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[2022/12/28]