宮里先生とのドイツ調査(2)
田中 誠 (弁護士)
宮里先生との思い出のうち、大きなものの一つが、労働弁護団で実施した1997年のドイツ調査旅行である。
1990年代当時、バブル崩壊後の、雇用情勢悪化、それに対抗する活動(前述の労働弁護団ホットライン活動含む)により、個別労使紛争が激増している中、個別労使紛争を適正・迅速に解決するためには、わが国の裁判所における訴訟手続だけでは不十分だという問題意識が労働弁護団員共通のものだった。
それで、一般司法裁判所以外の紛争解決システムを持つ国に学ぶべきということになり、「欧州労働紛争処理システム調査団」が組織され、ドイツ・フランス・イギリス・イタリアの4班に分かれて現地調査を実施した。
ドイツ班は、外国法では最もドイツ法に関心を持っておられた宮里先生を団長とし、他に弁護士6名と研究者1名であった。
ドイツ班の調査の中心は、いうまでもなく参審制の専門裁判所を擁し、わが国労働裁判件数とは比べものにならない事件数を処理する「労働裁判所制度」であった。
1997年4月19日(土)に、成田をルフトハンザ機で出発し、日付同日に現地着、4月20日(日)は休養と準備にあて、4月21日(月)に、まずは、フランクフルト・アム・マインのIGメタル本部に訪問し、その高層ビルの威容に驚きつつ、労働組合から見た労働裁判所制度への評価の本音や名誉職裁判官選任のシステムを聞き取るところから始まり、アダムオペルの事業所委員会も同様の視点で訪問調査、翌日、4月22日にヴィースバーデンの地区労働裁判所の見学・傍聴・ヒアリングを行った。
4月23日以降は、ヘッセン州労働裁判所、連邦労働裁判所、DGB(当時はデュッセルドルフ)、経営側弁護士事務所、ドイツ経営者連盟などを回り、4月30日にケルン大学のハナウ教授を訪問して終了となった。
それぞれの箇所で、意義深い調査があったのだが、一つだけ紹介するなら連邦労働裁判所(BAG)であろう。
4月24日(木)に、当時はヘッセン州カッセルにあった連邦労働裁判所を訪問した。応対してくれたのは、ディートリッヒ長官、パイファー副長官、ほか数名で、事前の質問書及び当日質疑には、ディートリッヒ長官が直々に解説・応答をしてくれた。
このような対応は日本の労働省ルートで実現したものだが、諸方面の方に動いていただく上で、団長が宮里先生だったということは大きかった。
ディートリッヒ長官との質疑の多くは、文献にも書いてはあることの再確認であったが、先方にも「この日本人弁護士達は、結構勉強してから来たのだ」と伝わったようで、話は弾み、多少踏み込んだやりとり、例えば「連邦労働裁判所判決に少数意見・補足意見が書かれない理由」について、ディートリッヒ長官の私見と断りつつ「名誉職裁判官を、組合及び使用者団体の圧力から保護するためではないか」との解説があったり、「通常裁判所と労働裁判所の手続上の異同」について「通常裁判所は形式にこだわりすぎると批判され、逆に労働裁判所は形式にこだわらなさすぎると批判される。」とか、政治的問題ともなる判決について「労働裁判所は、政治的問題に関する判断について、労働側・使用者側・あるいはその双方から「無謀」と言われることがあるが、それは裁判官が法にのみ拘束されることを無視した批判にすぎない」というような発言もあった。
ディートリッヒ長官(裁判官)の担当する部(小法廷)は、争議行為・共同決定に関する問題を扱っているとのことだったが、ディートリッヒ裁判官の業績やその評価については、この26年後に、「ドイツ労働法判例50選-裁判官が描く労働法の歴史-」(ミヒャエル・キットナー著・橋本陽子訳、信山社2023)で、改めて学ぶこととなる。
この日、ホイベルト裁判官(調査官)の案内に基づき、実際の事件(口頭弁論)の傍聴もした。
モルモン教のヨーロッパ地区上級幹部が不貞行為をなして、1993年に即時解雇されたという事件で、一審(フランクフルト地区)・二審(ヘッセン州)で解雇無効となって上告された事件で、午前中口頭弁論で、なんと即日の午後に判決とのことであった。
口頭弁論は、上告人・被上告人の代理人がそれぞれ約10分間の弁論を行った。法廷傍聴を終え、日本なら、通常企業なら解雇無効であろうが、教会なので、部分社会の法理とか、傾向経営の法理で解雇有効になりそうだなと考え、そう話していたら、案内の裁判官が満足そうな顔をしていた印象だが、午後の判決では破棄差し戻しとなったとのことである(最近検索してみたら、第2小法廷AZR268/96事件のようである)。 (つづく)