ドイツのある選挙風景と私

榊原嘉明(名古屋経済大学教授)

 2022年度、私は在外研究の機会を得た。
 単なる調査やシンポ参加を別とすれば、私自身、学部生だった2001年以来2度目の欧州滞在である。その約20年ぶり滞在で、最も印象的だったことの一つが、中世来の大学街ゲッティンゲンでの出来事である。

 2022年10月初め、同市が所属するニーダーザクセン州は、州議会選挙の最中にあった。そのある日曜日、私は幸運にも、連邦政府の連立パートナーである環境保護政党「緑の党」の演説集会に遭遇することができた。
 場所は、旧市街の中にある大きくも小さくもない広場。数台の警察車両の脇を抜け会場に着くと、大学祭の野外ステージのような即席の演台が。その前には、胸ほどの高さの鉄柵で囲まれた聴衆スペース。荷物チェックやプラカード不掲出など一定の制約事項はあるものの、誰でもすんなり中に入ることができた。物々しさはまったくない。私は中へ入ることにした。

 開始時間が近づく。鉄柵の内側には、すでに150人ほどの聴衆。しかし、外側にも、それと同じかそれ以上の聴衆。支援者然とした人は思ったより少なく、内外問わず、パートナー・家族・ペット連れが多い。
 集会開始。その瞬間、私がまず耳にしたのは、演説の声ではなく、けたたましい笛の音であった。振り向くと、鉄柵の外には数多くのプラカード。笛音は、その奥で鳴らされているようであった。
 「どういう人たちが、この抗議活動を?」と、私はプラカードを凝視する。見えてきたのは、「戦争以上の環境破壊はない」「原子力も緑の党ももういらない」「私たちの声はどこへ?」などの文字。そこにいた人の多くは、どうやら2021年9月の連邦議会選挙で緑の党に投票し、しかしその後の連立政権内の政策調整の結果、「おいてけぼり」にされた同党の支持者であるらしかった。

 セキュリティも、あくまで表現活動にとどまるその一部外側での出来事に介入する様子はない。内側の人々も、演説を聞きたい人は前に集中し、外側が気になる人はその様子を眺める。外側の人々も、演説の内容次第で熱心に拍手を送り、プラカードの内容次第で内側からも個別にサムアップを受ける。ただそれだけのことであった。
 
 さて、その異空間に身を置きながら、私が思い返したのは、2つの出来事、前回の欧州(オーストリア・ウィーン)滞在中、2001年9月11日の米国での出来事と、今回の欧州滞在中、2022年7月8日の日本での出来事であった。
 しばしば、“まるで「映画」のよう”とも評された約20年前の米国における「同時多発テロ事件」は、私にとっては「現実」以外の何物でもなかった。当時、『文明の衝突』(S.P.ハンチントン)という言葉をよく耳にした。青年期の私には、社会に生きる人々の間にあるらしい多種多様な壁が、どれもとてつもなく高く、厚いものに思えた。「しかしどうすれば、あのような経験を誰もがしなくてすむようになるのだろう?」そんな青年期のもやもやが、その後の私を結局、社会的対話や産業民主主義を支える法の学問ともいえる集団的労働法学の道へと誘ったように思える。

 それから約20年。壮年期に入った欧州滞在中の私の眼前にあったのは、しかし、日本の「安倍晋三銃撃事件」であった。「若かりしあの頃よりさらに分断が進んだようにも思える困難な時代。はたして、自身の研究はどれほどの意味を持っているのだろう。いやいや、世上の出来事が私の研究と直接結びついているわけではない。でも…」。いまだ頭の中で右往左往しながら、何とか目の前の仕事に手をつける毎日である。

(2023/04/06)