ヘルベルト・ヴィーデマン『交換関係及び共同体関係としての労働関係』を再読する(2)
米津孝司(中央大学教授)
共同体関係に関するヴィーデマン論文の再読が有益ではないかと考える理由は他にもある。
20世紀の最終四半期以降にドイツにおいて共同体理論の影響が低下した背景には、協約自治の進展と強行法規による労働者保護の展開がある。しかしながら20世紀の労働法を支えたこの二つの法源は、21世紀に入ってその機能を低下させており、その流れは基本的に継続、加速する可能性がある。
ドイツでは長らく労働関係には妥当しないとされてきた約款規制法理(契約内容の司法的コントロール)が、90年代以降に学説・判例において、信義則(B G B242条)を通じてその適用が肯定され、さらに2002年債権法改正によってそれが確たる基盤を獲得したのも、協約や強行法的労働法規による規制では捉えきれない労働関係における複雑な法益状況への対処の必要性が背景にはあった。
労働関係への約款法理適用についてのこうした展開は、基本権保護義務というドイツ基本権理論の成熟があって初めて実現したものであり、そこには日本が学ぶべき部分が多く存在する一方で、同理論が、歴史的にはドイツ人における共同体意識の積分化として形成されたドイツ的な国家観の基礎の上に成り立っていることも考慮する必要がある。
思想としての私的自治が脆弱で、かつ国家・市民社会・個人という近代社会の基本的な社会構成原理とその規範原理の内的構造に対する共通了解が確立しないまま、ドグマとしての公法・私法二元論と無意識的な共同体志向が根強い日本において、基本権たる私的自治を裁判官は保護する義務がある、とする約款規制法理のドイツ的なロジックが、どこまでの支持が得られるかは不明である。
むしろ国家の基本権保護義務に基礎付けられる約款規制法理を、多元的に存在する法共同体の法倫理、共同体構成員の規範意識へと微分化し、きめ細かな法益衡量を可能とする発見的な“生ける法”としての労働契約法理が日本では受け入れられやすいのかもしれない。公法理論として発展してきた比例原則も、むしろ共同体と当該共同体において交渉力において劣後し、往々にして権力的な支配従属関係に置かれるその構成員の法益保護の法理として普遍化可能ではないかとも思われる。
企業とそこにおける労働関係をめぐる法益状況の複雑化は、協約や強行労働法規の機能低下をもたらしているが、それら法源の実効性を担保するはずの労働組合や国家の役割(機能)の相対的低下は、プラットフォーム・エコノミーやグローバル化とともにさらに進行する流れにある。
ポスト資本主義(ポスト・モダン)が現実的な視野に入ってきた今日、我々は、近代市民法学の父であるサヴィニーが生きた時代(19世紀前半)と同規模の、法秩序全体の巨大なシステム転換に直面している可能性がある。後期資本主義の時代に生存権保障の要請に基づき民法の修正として生成し発展してきたとされる労働法は、今日、より根底において、個人の尊厳(人格の自由な発展)とそれを保障する自由と平等の理念に支えられていることについての共通了解が形成されてきている。
今日、我々は、ポスト・モダンの時代においてなお従属的な労働を規制し保護を提供する労働法(社会法)を構想する課題に直面している。近代市民法の基礎にたちかえり、さらにそのアーキタイプを提供したアリストテレスの正義論にまで遡及しこれを再構成することで、我々は、共同体の共通善としての自由と平等というモダンの法における作法を、ポスト・モダンにおける法システムとしてさらに進化させてゆくことができるのかもしれない。
現代ドイツ法学における最高の叡智を体現した一人であるヴィーデマン教授の若き日の論文には、ドイツ近代市民法学の基礎をなす人類普遍の共同体の法倫理に触れる鉱脈が隠されているのかもしれない、そんな期待に胸を膨らませながら、濃密にして晦渋なドイツ語と格闘する、そんな今日この頃である。
(2022/07/10)